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稲村ヶ崎の戦跡:横穴は人間機雷「伏龍」特攻隊の基地跡

2013年08月15日


8月15日は終戦の日(終戦記念日とも)。
1939年9月にドイツ軍のポーランド侵攻で始まった第二次世界大戦は、1941年12月8日の日本軍によるマレー半島侵攻・真珠湾攻撃で太平洋戦争として激化。東南アジアで戦線を拡大するものの、1942年6月のミッドウェー海戦大敗から戦況が悪化。1945年3月10日の東京大空襲、4月1日の米軍沖縄本島上陸、8月6日の広島・8月9日の長崎への原子爆弾投下を受け、8月14日に無条件降伏を求めるポツダム宣言を受諾。8月15日正午の玉音放送で昭和天皇から終戦詔書が朗読され、日本の降伏・敗戦が発表されました。

終戦から68年。今では戦争の痕跡に触れる機会は少なくなりましたが、湘南・鎌倉の人気観光スポット「稲村ヶ崎(いなむらがさき)」には、戦争末期に米軍の本土上陸に備えて建設された、特別攻撃隊「伏龍(ふくりゅう)」の基地跡が残っています。

鎌倉市稲村ヶ崎の伏龍基地とトーチカ

江ノ島と鎌倉の真ん中あたり、国道134号沿い、江ノ電稲村ヶ崎駅から徒歩3分ほどの「稲村ヶ崎公園(表記は稲村ケ崎、稲村ガ崎とも)」。行政的な名称は「鎌倉海浜公園稲村ヶ崎地区」で、丘陵を利用した広場や展望台から、相模湾越しに江ノ島や伊豆大島を眺めることができる、風光明媚なスポットです。

鎌倉市稲村ヶ崎の伏龍基地とトーチカ 鎌倉市稲村ヶ崎の伏龍基地とトーチカ

海岸から公園を見上げると、写真左の崖の右上に、砲台や機銃を装備する「銃眼(トーチカ)」を確認できます。さらに、中央の大きな穴は、手前にある横穴(写真右)から続いています。

鎌倉市稲村ヶ崎の伏龍基地とトーチカ 鎌倉市稲村ヶ崎の伏龍基地とトーチカ

下が横穴の入口。ツルハシなどで素彫りしたのでしょうか、掘削跡が荒々しく残っています。高校生の頃に入った記憶では、壕内はかがんで歩けるほどの高さがあり、20〜30メートル進むとT字路に。右の先は写真上でも紹介した海に面した穴へ(写真右)、左は次第に低くなり行き止まりとなります。

鎌倉市稲村ヶ崎の伏龍基地とトーチカ 鎌倉市稲村ヶ崎の伏龍基地とトーチカ
※崖の周囲や洞内は落石の危険があるため立ち入り禁止となっています。

この横穴は、米軍の本土上陸の足音が聞こえ始めた大戦末期に、「伏龍(伏竜とも)」を配備する基地として掘られたもの。伏龍とは、「神風(航空隊)」や「回天(人間魚雷)」と並び、「人間機雷」と称される特別攻撃隊(特攻隊)の人間兵器。空気ボンベを装着した潜水服を着用し、水中から棒の先につけた機雷で敵船を突く特攻部隊として編成されました。

鎌倉市稲村ヶ崎の伏龍基地 鎌倉市稲村ヶ崎の伏龍基地

伏龍の紹介を抜粋すると。。。

伏龍特別攻撃隊(上記写真も)]潜水服・圧搾空気ボンベを装着した隊員が十人で一隊を編成し、長さ2メートルの棒の先についた機雷で敵艦船の船底を突き撃沈させるという、特攻隊のなかでも最も悲壮な部隊。

伏竜|Wikipedia(ウィキペデア)【装備】
伏龍の潜水具は、1945年3月末に海軍工作学校が僅か1ヶ月で試作した代物。粗末なゴム服に潜水兜を被り、空気タンク2本を背負い、吸収缶を胸に提げ、腹に鉛のバンド、足には鉛をしこんだワラジを履いた。潜水兜にはガラス窓が付いているが、視界は悪く足下しか見えず、総重量は68キロにも及んだ。
伏龍での遊泳は考えられておらず、隊員は海底を歩いて移動する。個々の隊員は水中で方向を探る方法を持たないため、あらかじめ作戦海面の海底に縄を張っておき、海岸からの距離は縄の結び目の数で測られた。陸上との通信は不可能で、隣の隊員との連絡手段もなかった。海中にいったん展開すると、陣地変換はほとんど不可能であった。
潜水缶は長時間の潜水を可能にするため、呼気に含まれる二酸化炭素を苛性ソーダで除去し、再び吸入する半循環式の空気供給機。実験では5時間という長時間の潜水を実現し、呼気からの気泡を生じないという利点もあった。鼻で吸気して口から排気するという特別な呼吸法が必要とされた上に、実際には3〜4回呼吸すると炭酸ガス中毒で失神しやすかった。さらに、吸収缶が破れたり蛇管が外れたりして呼吸回路に海水が入ると、吸収缶の水酸化ナトリウムが海水と激しく反応。水和熱で沸騰した強アルカリが潜水兜内に噴出し肺を焼くという重大な欠陥があり、訓練中に横須賀だけで10名の殉職者を出した。

【運用】
海中では視界も悪く動きも鈍くなるため、敵の上陸用舟艇に向かって移動するのは事実上不可能であった。
五式撃雷(通称・棒機雷)は水の抵抗のある海中では自由に振り回すこともできず、当初は長さが5メートルもあったがが2メートルに切り詰められた。さらに、棒機雷の炸薬量では、舟艇を直撃しないと被害を与えることは不可能。隊員の直上をたまたま通りかかった場合以外に攻撃のチャンスは無かった。
しかも、部隊の展開密度を上げると、棒機雷が炸裂した時の爆圧で近くの隊員まで巻き添えにするどころか、次々と誘爆してしまう問題点があった。そもそも、海中での爆発による強烈な水圧は隊員に致命的なダメージをもたらすため、上陸に先立つ準備砲撃が付近の海中に落ちただけで、伏龍部隊の大部分は駆逐されてしまったであろう。兵士を避難させるコンクリート製防御坑の計画はあったものの、終戦までに防御坑が構築されることはなかった。
このように伏龍は机上の空論に基づく兵器であり、実戦に用いられた場合に成功する可能性はなかったといえる。視察した鈴木貫太郎首相すら、その実用性に否定的で、実戦使用に反対するほどであった。

実際に出撃することなく終戦を迎えた伏龍。杜撰な装備や作戦を知った上で眺めると、稲村ヶ崎の壕が、戦争の無益さや空しさを伝えているように思えてきます。
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「伏龍」という言葉や、稲村ヶ崎にそんな跡地があるなど、初めて知りました。
記帳な記述ですね。為になりました。
Posted by 大洞 蕗(おおぼらふき) at 2013年08月15日 09:40
大洞蕗さま
自分は藤沢育ちなのですが、最近まで知りませんでした。
こうした情報を若い人たちや子供たちにしっかりと伝え、戦争について考えていく姿勢が必要ですね。
Posted by 湘南・鎌倉ぶらぶらネット at 2013年08月15日 19:15
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